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盲僧琵琶


ひとことで言えば、仏教音楽の一つで演奏者は 盲目の僧侶(または僧体をなすもの、私度僧で
すね)で、琵琶だけでなく 法会では打楽器なども用いることもある、宗教音楽家であるのと同時
に平家琵琶の平曲演奏家と同様に 職業的芸能者でもあり ともに琵琶法師と総称される。
明治以降 廃仏毀釈などのため様々な制約をうけて 苦しい立場にたつこともあった。

盲僧およびその琵琶の 日本への伝来の歴史などは不明である。伝来や歴史が比較的はっきり
している雅楽琵琶と 現在の盲僧の使用する琵琶から類推すると 形状や奏法が異なるため、そ
のルーツが異なると考えられているようである。 しかし非常に古くから九州各地に 盲僧が存在
していたようで、江戸時代には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前の諸国に盲僧が広く分布いていた
という記録があるそうで 九州以外にも中国地方とくに長門、周防に多く、ほかに石見を経て若狭
に及び、山陽地方では広島にまで及んだという。
こうした九州、中国系の盲僧とは別に 大和には古くから興福寺の一乗院門跡を本所とする盲僧
の組織があり その勢力は紀州にまで及んでいたという。

盲僧琵琶は『筑前盲僧琵琶』と『薩摩盲僧琵琶』とに大別される。 豊前の国東盲僧琵琶は調弦
が筑前盲僧と異同があり別種ともいわれるが 宗教上の分類では筑前盲僧と同じく『玄清法流』
と称するため筑前盲僧と括られているようである。
また肥後琵琶というものは 現在は演奏者が盲僧とは言いがたくなっているものの、その歴史は
1674年(延宝二年)京都の舟橋検校が 肥後藩主細川候に召されて熊本に行き、盲僧たちに浄
瑠璃を教えたのが始まりとされるため 元来は盲僧琵琶であるともいえよう。

盲僧琵琶の歴史について その伝承を有するのは 成就院と常楽院で、それぞれが伝えるだいた
いの沿革は 次の通りである。

成就院の開祖は玄清法印で 「成就院玄清法印芳蹤録」などによれば、776年大宰府の生まれ
幼名は乙丸、父は橘左近尉光政、7歳で伯父知山より受戒、17歳で失明し 盲僧となる。
「盲僧由来」などによれば、785年比叡山根本中堂建立に際して 地鎮祭の法を行い、その功に
より成就院の号を受け、「般若心経」と荒神祓いの法を授けられ、789年四王寺北谷に成就院を
建立し 筑紫九ヶ国の盲僧の長となり、808年 成就院を天台宗叡山末流盲僧本寺とする許しを
うけ、法眼の位と「地神陀羅尼経」を賜り、817年 法印となった823年 享年58歳で没した。「筑
紫国続風土記」によれば、墓は四王寺山上焼米原にあるとされる。
「盲僧由来」では、その後1298年 その著者の真如院受山大徳が博多蔵本町に臨江山妙音寺
建てて盲僧の本山とし、1907年にそれが高宮に移されたのが 現在の成就院であるという。
 ところが、「常楽院沿革史」などによると比叡山根本中堂の建立に際して、伝教大師が山中の
蛇などを退治するために 土荒地神を祭る地鎮の典を挙げるべく 九州から呼び寄せた盲僧は、
満市坊、満虎坊、満王坊、今様坊、袈裟様坊、大行寺坊、大栗坊、今城坊、の八人ということで
あるが、一方「盲僧由来」では、九州から呼び寄せられた盲僧は、筑前の麻須@、筑後の化佐@
伊麻@、肥後の麻須@、薩摩の他化@、日向の与根@、豊前の征@であって、しかも元明天皇
のときに宮中の魔障をはらうためであったという。 「常楽院沿革史」では、前出の八人の盲僧は
806年 天台の四度行法を修め、阿闍梨位と院号を授けられ、今様、袈裟様、大行寺、大栗の四
人は九州に帰ったが、他の四人は都にとどまった。 そのうち満市坊は満正阿闍梨となり、808年
逢坂山に正法山妙音寺常楽院を開いた。 九州に下った今様坊は肥後に、袈裟様坊は日向に、
大行寺坊は大隈に、大栗坊は薩摩に、それぞれ盲僧寺を開いたとされている。満正阿闍梨は常
楽院を32年間住持し、晩年には「妙音十二楽」を制定し、840年頃没したという、その四代目の住
持が「蝉丸」であるともいう。
 常楽院第十九代住持の宝山検校は、 1192年 島津忠久が薩摩ほかの守護職となったときに
島津家の祈祷僧となって忠久に随従、1196年薩摩日置郡伊作郷中島に常楽院を建立した。 そ
の後、島津日新斎は常楽院三十一代の淵脇寿長院了公を陣中に召して聞役とし またその功に
より三十二代の家村大光院を召して薩・隅・日三州総家督とし、その支配下の各家督は一人一人
盲僧屋敷を賜り、各地の盲僧寺の住職となった。 1619年 三十三代長倉浄徳院のときに、島津
家の命によって常楽院は鹿児島城下山之口馬場に移された。その後1696年にはさらに下荒田町
に移された。 1870年 四十四代伊集院俊徳のときに 廃仏毀釈のため祓戸神社と改称したが、
76年信仰の自由の令が出て 再び常楽院として復興された。 しかし77年の西南戦争で 本堂は
焼失、79年に長田町に移転した。 四十五代を継いだのが 「常楽院沿革史」を記した江田俊了で
あるが、その住持した長田町の常楽院も 第二次世界大戦の戦災で焼失、四十六代樗木教真の
ときには吹上町の中島常楽院を本山としたが、現在は江田の弟子の日南市飫肥の真景山長久寺
覚正院(袈裟様坊が開く)の柳田耕雲が その四十七代住職を兼ね、中島常楽院は日南長久寺常
楽院の管理下にある。 なお、日向盲僧が事実上の本寺としている長久寺浄満寺は、やはり「常楽
院沿革史」によれば、1685年に領主有馬左衛門尉永純が 吉野坊真鏡のために建立したもので、
真鏡は延岡領内盲僧取締を命ぜられ、1690年に没した。 やはり明治の廃仏毀釈を経て、1907年
天台宗地神盲僧規則改正によって常楽院の管轄を受けるに至った。
 以上のように薩摩盲僧は薩摩藩の庇護を受けていたために、その近世における沿革はある程度
明らかになっているが、それ以外の九州の盲僧の沿革はほとんど不明である。

すべての盲僧に共通するのは 明治に至って、神仏分離を中心とした政府の宗教政策から、盲僧
の宗教行為も制約を余儀なくされた。 すなわち、神職に転職させられるか、あるいは神事に関与
することさえ禁じられた。 さらに1871年の盲官廃止令は、当道座の解体のみならず 盲僧の存在
も禁止するものであって、その後天台宗に属することによって復活した玄清・常楽院両部の盲僧以
外は、ほとんど盲僧としての集団的存在は見られなくなってしまった。

盲僧が檀家を回って行う法要を 廻檀法要というが、これは習俗的信仰行事とも結びつく。 その中
で代表的なものが「土用行」で、いわゆる「竈払い」「荒神祓い」である。そのほか、「地鎮祭」「火上
げ」「水神上げ」「亡霊落し」などがある。 これらの廻檀法要には荒神経系のお経、地鎮経系のお経
和讃、釈文などが用いられるが、その経の種類や内容は様々で、しかも正規の経典でないものが多
く また音読とは限らず、訓読のものもある。なお常楽院部では、土荒神法すなわち荒神祓いを行わ
なくなっている。こうした廻檀法要の際に 余興として行われた盲僧の語り物芸能を「くずれ」といい、
主として北九州の盲僧が行った。本来は釈文に代わる琵琶説経であったものが、しだいに琵琶軍談
的なものが多くなっていった。 そうした軍談は 戦没者の鎮魂のために発生したものであり、平家の
軍談もその一つであったと思われ、古くは盲僧側でも「平家くずれ」として、平曲に近いものを語って
いたと思われる。 一方、当道側の盲人も古くは「地神経」などを踊したことが記録されている。
なお現行の薩摩琵琶で「崩れ」といっているのは、合戦の場面などでの勇壮な旋律をいうが、これは
盲僧の「くずれ」が軍談中心であったことに起因しよう。
 さらに和讃体の韻律的な詩型の語り物が発生して、これを「端唄」といったが、これも和讃に代わる
ものであり、現行の薩摩琵琶の初期の琵琶歌はこの「端唄」から発展したものと考えられる。 現行
の筑前琵琶も、もともと筑前盲僧からもので その基本となったのは薩摩同様に「端唄」や「くずれ」
である。 なお現在では「端唄」に対して本来の「くずれ」を「段物」ともいっている。

筑前盲僧や肥後琵琶の演奏者たちは、最も余興的なものとして「酒餅合戦」「鯛の婿入り」など滑稽
な内容をもつものを語る。これらは多分に即興性をもち、これを「チャリ物」という。 現在では盲僧外
にも「滑稽琵琶」などと称して広まり、曲弾き的要素も加えられたりしているが、本来は盲僧の「くずれ
」の一種であったものである。


盲僧琵琶については、もう少し資料を集めて 勉強がすすんだらもう少し書き込みます。


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